何かを取りに立ち上がり、隣の部屋へ向かう。
ところが、着いた瞬間に分からなくなる。
「……何しに来たんだっけ?」
歩いたのは数秒。さっきまで目的があったことだけは覚えているのに、その中身が出てきません。
この身近な物忘れを考える手掛かりに、心理学で「ドアウェイ効果」と呼ばれる現象があります。部屋の移動が、直前の情報の思い出しやすさに影響するというものです。[1]
ただし、ドアをくぐると記憶が消える、というほど単純な話でもありませんでした。
本当に、部屋を移ると忘れやすくなる?
2006年、心理学者のガブリエル・ラドヴァンスキーらは、参加者にコンピューター上の空間で物を運んでもらい、物についての記憶を調べました。
比べたのは、同じ部屋の中を移動した場合と、別の部屋へ移った場合。結果は、別の部屋へ移ったあとに、物の情報を取り出しにくくなるというものでした。[1]
2011年には、実際の部屋を使った実験でも同様の影響が報告されています。[2]
もっとも、これらが直接調べたのは「どんな物を持っていたか」などの記憶です。日常の「何をしようとしていたか」という目的の物忘れを、そのまま再現したわけではありません。それでも、移動と記憶の関係を探る手掛かりになります。
体が移動すると、頭の中でも場面が変わる
一つの説明は、私たちが経験を「出来事のまとまり」に区切っている、というものです。
たとえば、机で作業する時間と、台所で飲み物を用意する時間。現実には続いていても、頭の中では別の場面として扱えます。場所や目的の変化は、その区切りになります。[3]
研究では、この区切りを「イベント境界」と呼びます。ドアも、その手掛かりの一つです。
場面が変わると、頭の中で扱う情報も更新される。そのため、前の場面の情報にアクセスしにくくなる、という考え方です。[2][3]
たとえるなら、机の上で開いていた資料をいったん脇へ寄せ、新しい作業を始めるようなもの。資料そのものが消えたとは限りませんが、すぐ目の前にはなくなります。
体は目的地に着いたのに、用事は前の場面に置いてきたようになる。あの数秒の空白には、こんな説明が考えられています。
でも、ドアが全部悪いわけではない
ここで気になるのは、毎回忘れるわけではないことです。
2021年の研究では、VRなどを使った四つの実験を行いましたが、従来と同じような忘却の効果は一貫して確認されませんでした。
一方、物を覚えながら数を逆算する課題を加えたVR実験では、部屋を移ったあとに、覚えた物の色と形を取り違えた組み合わせにも「見た」と答える誤りが増えました。[3]
つまり、「ドアを通ったら記憶がリセットされる」とまではいえません。実験の条件や、何を覚えさせるかも関わっています。
2026年の別のVR研究でも、部屋の境界が、物を見た順序や場所の記憶に影響することが報告されています。[4] 場所と記憶には関係がある。ただ、その働き方は一つではないようです。
元の部屋に戻れば思い出せる?
忘れたとき、いったん元の部屋へ戻ることがあります。
これで思い出せることもありそうですが、2011年の実験では、物を覚えた部屋に戻っても記憶成績は改善しませんでした。[2] 「元の場所に戻れば必ず復活する」というルールではないのです。
日常で試すなら、移動する間だけでも用事に意識を向けておく。研究者も、別のことを同時に考えすぎず、目的に集中することを提案しています。[5]
たとえば、充電器を取りに行く数歩のあいだは、次の仕事を考える前に「充電器を取る」を頭に残しておく。実験で確立された万能な対策ではありませんが、試しやすい工夫です。
「何しに来たんだっけ?」は、記憶が時間とともに薄れるだけでなく、今いる場所や場面にも左右されることを考えさせます。
隣の部屋まで、ほんの数歩。その短い距離でも、頭の中では場面が切り替わっているのかもしれません。
参考資料
- Radvansky, G. A., & Copeland, D. E. (2006). Walking through doorways causes forgetting: Situation models and experienced space. Memory & Cognition, 34, 1150–1156. 仮想空間での物の記憶と部屋移動を調べた研究。
https://doi.org/10.3758/BF03193261
著者所属大学による抄録掲載:https://aquila.usm.edu/fac_pubs/2333/ - Radvansky, G. A., Krawietz, S. A., & Tamplin, A. K. (2011). Walking through doorways causes forgetting: Further explorations. Quarterly Journal of Experimental Psychology, 64(8), 1632–1645. 実空間での検証と、元の部屋に戻る条件について。本記事では公開抄録を参照。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/21563019/ - McFadyen, J., Nolan, C., Pinocy, E., Buteri, D., & Baumann, O. (2021). Doorways do not always cause forgetting: A multimodal investigation. BMC Psychology, 9, 41. 再現性、作業記憶への負荷、誤認の増加を扱う原著論文。
https://doi.org/10.1186/s40359-021-00536-3 - Lamont, J. C., & Bilkey, D. K. (2026). The effect of spatial boundaries on memory in a virtual environment. Memory & Cognition, 54, 2002–2015. 物の時間的順序・場所の記憶と、空間的境界の関係を調べた研究。
https://doi.org/10.3758/s13421-026-01852-y - McFadyen, J., & Baumann, O. (2021). It’s not just doorways that make us forget what we came for in the next room. UCL News掲載の研究者本人による解説。日常への応用は、実験結果と区別して参照。
https://www.ucl.ac.uk/news/2021/mar/analysis-its-not-just-doorways-make-us-forget-what-we-came-next-room

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